百歩譲って

 統合失調症(50歳男)Iさんの口癖は、「百歩譲って」。彼は“某歌手が自分の詩を盗作して歌を作っている”という信念があり、毎日“謝罪の手紙がくるのでは”、と郵便受けを覗いている。彼は“どうしてこんな不正が通るのか、皆その事を知っているのに、自分はそこらじゅうで監視されている。先生も知っているのに”とぼやく。市役所や警察には年に1度位は欠かさずにモンクを言いに行き、先日は消費者センターにも行ったらしいが、何処に行っても「証拠がない」と言われるようだ。で、彼は先ず50歩譲る。“50歩譲って全部僕の考えすぎとしても、どうして皆は僕の苦痛を見て見ぬふりをするのか、同じ人間なのに”と世間に不満を漏らす。しかし、彼の偉大なのは、“まあ、そのうち僕が作ったと分かるから、その時祝福して貰えば良い”と、そこからもう50歩譲ることで世間を許してしまうことだ。そのもう50歩譲れるのは彼の妄想がそれだけ強力なせいなのか、彼の人格が君子的なのか、僕には判断出来ないが、Iさんが百歩譲るとIさんの妄想がIさんの願望と同じ土俵に降りることになり、そうなると精神科医と充分に話し合えるようになるのである。人間誰も、自分の信じてる事が100%社会に通じることなんかないんだから、相手に話が通じなくなったら、取り敢えず、話が通じる地点まで後ずさりをする、というのはとても良い方法だと思うのです。だから、「患者は皆医者に敬意を表して百歩譲って話をすべきだ」と思っちゃうんだけど、甘いかしらね。